三四郎

水村美苗さんの「日本語が滅びるとき」をよんでて、そのなかで夏目漱石の「三四郎」が登場し、面白そうだなと思ったので読んでみた。
その前に水村美苗さんの「日本語が滅びるとき」に触れておく。といっても、後半はぜんぜん読みこなせてないので感想という感想も言えないのだが。だけど、一章の「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」は非常に面白かった。この章では著者のアイオワ大学のIWPという長期プログラムに参加し、世界中から集まった作家と共同生活を送った体験が語られている。その体験の中から、人はなんと色んなところで書いているのだろう・・・という感慨を持つ。著者は物を書くという事に焦点を当てているが、これは物を書くに限らず、人はなんと色んなところで生きているのだろうか・・・という生活全体に焦点を当てたとしても、その感慨の根は変わらないのではないかと思う。僕はいま日本で生活しているが、隣の韓国、中国にもそれぞれ多くの人が住んでいて、もっと遠くのヨーロッパやアフリカ、アメリカにもたくさんの人がそれぞれ暮らしている。これは当たり前の事であるが実感できる機会というのは実際に海外に行ってみないと得られないと思う。海外の小説を読んでも、その小説の登場人物に共感してしまい、その人物がいかに自分と違った世界で生きているか、いかに自分と違うかという事にはなかなか気づけない。実際に自分の世界とは全く違った世界で生きている人と対面する等、自分と相手が絶対的に他者であるという状況でなくてはいけない。自分と相手が全く別の人間だとふまえた上で、その生きている文化の違いを認識しないと、本当に違うんだという事は理解できないと思う。そして、その違いというのが面白い。文化の違いというと話がでかすぎるが、自分と全く違う人生を歩んで来た人の体験というのは聞いていて面白ものだと思う。そういう自分とは違う人々が世界には様々に生きている(書いている)という事実を実感する体験を擬似的に体験出来たことが、この章をよんで一番面白かったところであり、手に取って良かったと思った所だった。


さて、三四郎の話にいこう。
読んでいて三四郎に共感する所がかなりたくさんあった。好きな女性になかなかうまく近づけないところとか、どうやって会うきっかけを得ようかと、うじうじしてる所だとか。他にも美穪子と話していて、自分の感性はかなり鈍いのではないかと三四郎が感じる所があるが、僕も自分はかなり人と比べて鈍い人間ではないかと良く感じる事があるので、お前もかとかなり親しみを覚えて読んだ。
物語の全体を通じて三四郎は環境に振り回されてばかりいる。上京中にであった女との話(妙な成り行きで知らない女と同じ布団で寝る事になるが、自分は疳性だと行って女との間にシーツを丸めてしきりを作ってしまう。そしてそのまま朝を迎える。あげく別れ際に「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と言われてしまう。)など、あまりにされるがままの三四郎に爆笑してしまった。三四郎が自分から何かしようとしたのは、好意を持っている美穪子にどうにかして会おうとする時ぐらいだったと思う。いや、ここも共感したところですよ。


それにしてもこの本は美穪子に萌えるための本だね。
美穪子はかなり自我の強い、旧来の日本人とは違った近代的な女として描かれている。男性の三歩後ろを黙って着いて行く様な女ではない。むしろ三四郎を引っ張って歩いたりもする。相手が男だからといって遠慮する事もなく話す。広田先生風に言えば露悪的な女だ。だが、終盤美穪子は三四郎にたいして少なからず好意を抱いていたように読み取れる。いや、はっきりとは書いてないけどそんな気がする。どこに萌えるかというと、そんな我の強い美穪子だが、それは強がりで、時折その強がりがはがれて不安をあらわにする所だ。美穪子が無邪気に三四郎に悪ふざけをするが、三四郎が怒ってしまう。怒った三四郎に「あなたを愚弄したんじゃないのよ」と弁明をして、三四郎がまだ怒ってはいるが面倒にしたくないという風に「それでいいです」というも、「なぜ悪いの?」「本当にいいの?」と不安げに聞いてくる様が何ともかわいいじゃないか。結局美穪子を嫁に出来なかった三四郎に同情します。


まとめは美穪子萌えで。


露悪という言葉だが、「三四郎」を読んで初めて覚えた言葉だ。どういう事をいっているのかと読みながらずっと考えていたが、おそらく旧来の日本の風習として正しい事と違った、西洋的なやり方をあえてやろうとする様を露悪と表現したのではないかな。今風に言うとチョイ悪とか?まあ、中二病に近い性質のものと思われます。合ってるかどうかは知りませんが。